《あきひろくんの場合》@a_m52wxyz
浮気をした。これが初めてでは、ない。
赤い常夜灯の下、夜とも真夜中とも言えない時間のなかで天井を見つめるとき、僕は海であり、空であり、大気になっている。どこにもあって、どこにもないような、そんな感覚。
僕は僕でありながら、僕を浸し、僕を包んでいる。そして内向きな心を持ちながら、果たしてその外では、ただじっと今の僕を見つめている。
だいたい、そんな感じ。
「明日は早いの?」
毎回それを訊くあなたの口は、何度も同じ文句を話していることに気づいているだろうか。
「ん、午後から」
そして僕の口は、懲りずにまた、あなたの記憶力の悪さによる巻き戻しに、まんまと寄り添ってしまう。
木曜日はいつも、午後からしか授業を入れてないんだよ。だからゆっくりしていけるんだ。
「そっか。どうする」
だらりと僕に垂れた腕が、背の向こうでスマホをいじってる。鼻の先で動く口から、かすかなメビウスと、ほんの少しの唾が香る。そのとき僕は、強く動物を感じて、少しあなたが嫌になる。でもその嫌さは、なんといったらいいか、すぐ気持ちよさに変わって受け入れられてしまう。
本当はずっとここにいたいけれど、あなたがどうするなどと促すとき、求められてる答えは決まっていた。
「……帰ろっかな」
「わかった」
緩む腕が離れていきそうになる。
「あ、止めないんだ」
「だって、帰るっていうから」
「少し嬉しそうにしたでしょ」
さもできる女かのように、ちょうどいい笑いまじりの声音で、言葉の重さを抜いた。
「してないよ、好きだもん」
そういってタバコくさいヒゲの刺さるキスを落とす。でもうそ。ほんとはもう、少し僕を面倒に思っている。微かに僕と触れる時間が、キスをする時間が、手を緩める速度が、早くなっているのを僕の肌が見逃さない。
あなたもそれは感じていて、でも決して、関係を終わらせようとはしない。なぜならまだ僕の体に飽きたわけではないし、なにより、そんなあなたの勝手な心に、僕が気づいていないと本気で思っている。そして、不倫にすがる僕という架空の人物に対して申し訳なくて、切り出せないでいる。
そんな鈍い人間なんて、そうそういるはずがないのに。
そこまでわかっていて、僕も何も言い出さないのは、それこそ好きだからなんだろう。
いや、最初から終わっているものに、期待などしていない、という方が正しいのか。
「またこの人から足跡踏まれてる」
ふっと笑って見せられた画面には、知ってる人のナイモンアカウントがあった。
「あーこの人」
「なんか、ヤバそうだよな」
「全然イケない。こんなのとヤるなんて気がしれないよ」
あなたは鼻で笑って
「言えてる」
と言った。
25歳というには老けた顔と、ブサイクについた泣きぼくろが特徴の短髪お兄さん。僕らみたいな少しむちっとした体型が好みらしく、2人ともを踏んでいるらしい。
「てか、彼氏さんナイモンゆるしてるの?」
「黙認かな」
「とられちゃうかもしれないのにね」
わかりやすい嫌味だった。恐る恐る彼の方を見ると、何てこともないまま、僕を普段と同じように見つめている。
その視線が微妙に長く、揺れて、僕をあなたの糸から振り落とさんとしていることも、わかってしまう。
「じゃ、またな」
わざとをいなす最大の攻撃は、いつも通りの温かさを与えられることだろう。玄関の扉の前で一つ抱きしめられてから、僕は見送られた。
マンションの入り口を出たあたりで、僕は繁華街の方へ歩き出した。今日は帰るつもりもない。
あなたのもう一つの勘違いは、僕のはけ口があなたしかいないと思っていることだ。
ナイモンを開いて、メッセを打つ。相手は25歳の短髪で、泣きぼくろが特徴の人だ。
「いまからヤリませんか?」
1分もしないうちに、嬉々としてメッセが返ってくる。よっぽどモテないらしい。
それから僕はまた、大気になり、空になり、海になった。二度目に流した唾液や吐息や精液も、心も、ぜんぶ溶け出していまは、男の隣でぐったりする僕を、そしていまごろ眠っているだろうあなたを包みだす。
あなたが嫌と言った人間の息を、液を、気持ちを、僕は毎週こうして持ち帰って、来週のあなたに届けている。
口移しで、来週のあなたの口へ注ぐ。広がって包んで浸して、隙もないほどに、そんな汚れた全部をあげる。そうすることでもっと、僕はあなたを支配できる気がするのだ。あなたの知らない僕が、あなたの知ってる僕の後ろで、無造作に広がっていくのを想像すると、僕はなんだかおかしくて仕方がない。
そして、そんな僕がいつか、あなたをすっぽりと包み終えてしまったとき、もしかしたら、もしかしたらがあるのではないかと、思ってしまう自分がいる。
それこそ、あなたを一番に包むあの海が、僕に負けを認めて立ち去るような、そんなありふれた妄想の風景に出会える気がして。
一度、あなたの恋人にあったことがある。これも、あなたが知らない僕の一部。ふふふ。包み隠さず、僕はすべての関係を、その人にぶちまけた。そうしたら、どうなったと思う?
その人はただ笑ってた。そうですかって、にこやかに、まるで穏やかな自然のように、僕なんかまったく相手にしていなかった。
それ以来だ、僕の悔しい海が、ひろがりはじめたのは。
「気持ちよかったよ」
ぎこちない言葉が、思わず僕を笑わせる。
「あはは、ありがとうございます」
海に食われた泣きぼくろが、ふにゃりと曲がった。所詮それは、あまりに滑稽で、貧しく、狭く、そしてあまりに不憫な僕の一部である。